過去の展覧会
(…深夜、窓の外には雨が降り続けている)
今 この文章を読んでいる人、居ますか。
なぜこんなにもゆっくりと、日曜日の昼下がり公園の鳩が追いかけられて仕方なく飛び立つような速さで公開されたのかというと、なぜ展示のタイトルが「羽ばたき küləyin təyinatı」なのか、自分でもわからなかったからです。そして、そういう時私はいつもミヒャエル・エンデが「モモ」を書き終わったずっと後に作者自身でもわからなかったシーンの謎が解けたエピソードを思い出します。(もうこのエピソードも自分の中では古すぎて、現実だったのか幻覚だったのかわからないのでここでは書くのをやめておきます)
こういった何か現象(言葉)が生まれて、一体それがなんなのか自分でもわからなくて、その理由は後から自分で「気が付く」というより外から「教えてくれる」ものなんだろう。時が経ち 少しずつ夢から醒めていくように夢の中の理解できない瞬間が現実に解けていくような、そういう気が付くような感覚。それを大切にしたいといつも思います。
その夢が醒めていく過程を、今この文章を読んでいるあなたと共有します。
羽ばたきという言葉は大切ですが、羽ばたきだけが大切じゃないんだ。
何を言ってるのかと もう少し言葉を足すと、「羽ばたき」という現象も素敵ですが自分がそれを見るなら羽ばたきのその先にある影響を見たいと思います。なぜ羽ばたきが起こったのか_そしてその向こう側にある景色を_続きを_手にとるように_知りたい。
私の絵は絵で、止まっていて、誰かが演じる映画でもないし、そこから先に何も無い(まるで、現代のゲームのグラフィックが「その画面」しか映さないのに綺麗な世界が延々と広がっているかのように)のですが、その絵の次の瞬間を見たいといつも思います。そんなことはありえないのに、ここには何も無いのに、絵の中に帰れないのに、そう願います。
私の好きな映画(それは、私のことが好きな人にはすぐわかる合言葉のような映画です)に「永遠の時を眺めるより、今ここにある瞬間を生きたい」言って生きている人間に成った天使がいます。本当にその通りだと思います。昔感じた小学校の校庭で運動会の練習にいやという程付き合わされて、暇で暇で仕方ない時に見上げた空や、粉っぽい土の、何もできない砂利の、その生命感を忘れて生きていました。夏の空を見上げているのに全然暑くないんです。何をやっていても傷ついても、自分に起きていたことなのかわからなくなる瞬間があります。そんな「感覚」を全て遠くにある「風景」にして生きてきたように思います。その風景は、図書館の窓みたいな、ずっと遠くの外にあって自分には全く入ってこないところにあって、あってもなくても自分には全然関係のないものになっていく。
なんとなく、生きていていろんな人がいて、そういうのが良いとか、辛いことやしんどいこと、汚れていくことを何も感じたくないという人もいるのはわかるしいいんですが、私にはそれが合わなかったなと思います。
透明なガラスケースにきれいに仕舞われるのはもうおしまいにしましょう。
今この瞬間を生きていて、やっぱりその中には生きれなかった人もいるんですが、どのような人のどのような瞬間にも寄り添うような、分かち合うような絵が書きたいと思います。本当は分かち合えなかった(かもしれない)だからこそ、でもでもでも それが出来たらいいよね。と思います。この絵を見て、文章を見て、どう思うのかな。。。
分かち合いたい
私がこうやって書いた文章も、電車に
乗って帰るうちに何食べようかなお風呂に入っているうちに友達とやりとりしているうち眠ちゃってにどんどん解けていって言葉のロープもぼろぼろと細かくなっていってそれに気がつかないで
曖昧になって 何か
ぼんやりとした
「
幽霊
みたいな
に成って
消えていく
深夜
喫茶店
コーヒーが忘れさられていくみたいに
』:old.you.
なにか
さらさら した
記憶
にな
って
消えてい
く
<<
<<<
その先にまた、いいなと思う絵があって
そこでまた出会えたら本当にいいなと思います。
彼女が大切にしているもの
>>>>
küləyin təyinat
あなたの大切なもの。
…
(窓の外には雨が降り続けている…)
羽ばたき küləyin təyinatı
伊丹小夜
◆伊丹小夜
【プロフィール】
この世界は鏡だね。伊丹小夜は絵と短歌。